これまでマスメディアのものだけだった情報発信は、技術の進化により個人でも気軽にできるようになりました。
今回の「KOBEZINE」は、神戸のFM局、Kiss-FM KOBEのサウンドクルー(※Kiss-FMにおけるDJの呼称)をはじめ、長年関西のFM局でラジオDJとして活躍され、現在は神戸でヨガのインストラクター、そしてハワイアン事業でカフェやショップなどに携わっている大久保かれんさんと、神戸出身でホームページやブログ、インスタグラムなど、個人の発信ツールで活動の幅を広げ、最近ではテレビの他、4月からはラジオにも出演されている、「神戸ピーポー」のウラリエさんをお招きしての対談です。
お二人とも神戸生まれ。同じ情報発信のプロでありながら、マスから個へ、個からマスへと、ちょうど真逆の経歴をたどるかたちになったお二人のお話は、リアルな神戸人(KOBEZINE)を感じさせてくれました。
【取材協力】北野クラブ
ラジオDJになったのは英語を活かせる仕事をしたかったから
大久保かれんさんと言えば、神戸の人にとっては長年Kiss-FM KOBEのサウンドクルーをされていたことでおなじみです。筆者もKissner(キスナー・※Kiss-FMにおけるリスナーの呼称)としてかれんさんの番組をよく聴いていたひとりです。
大久保かれん(おおくぼ・かれん)
1968年神戸生まれ。1992年よりKiss-FM KOBEをはじめ、京都α-STATION、大阪FM COCOLO、テレビなどでもMCとして活躍。2018年にラジオDJを引退。その後「タイムトリップ神戸」などのイベントやプロジェクトに携わる。2014年からヨガを始め、現在は神戸でヨガインストラクターとして活動中。
かれんさん「父親の仕事の関係で小学校1年生から4年生までアメリカに住んでいて、いわゆる帰国子女なので、英語を活かせる仕事をしたいなと小学校のときからずっと思っていたんです。
アメリカでは家族で車のラジオをよく聴いていて『めっちゃかっこいい』と思って憧れて。音楽が好きだったので、日本に帰ってきてからもいろんな音楽を聴きながら、絶対将来はアメリカナイズドされたラジオ局で『DJになる』って決めていました。
その当時は、日本のラジオ局はFMでも堅いイメージのところしかなかったんですが、私が大学生の頃に東京にJ-WAVEができ、大阪にFM802ができ、神戸にKiss-FMができ、ようやく私が聴いていたのに近いラジオ局ができてきたんです。
いろんなところでオーディションを受けて、FM802のワークショップに受かって、一度番組をやらせていただいたのが最初です。
その後、オーディションに受かったKiss-FMのサウンドクルーを震災後も続けて、京都のFM局からも声をかけていただいて、テレビもやらせていただいたんですけども、2009年にKiss-FMをやめて、その後802の運営になったFM COCOLOに声かけていただいて2018年まで続けていました。
なので、私のラジオ人生は802ではじまり802で終わった感じですね。」
かれんさんが理想とするラジオ局が関西にも続々と起ち上がるという、まさに時代の転換期でDJをしてこられた、まさにレジェンドという存在です。
なにかを表現するのが好きだった
一方、Instagramのフォロワー数6万4千人のウラリエさんは、学生時代から情報発信に長けていたようです。
ウラリエ(うらりえ)
1988年神戸生まれ。学生時代からホームページ・ブログ・SNS等で情報発信。現在はフォロワー6万4千人のInstagramをメインに活動。最近ではテレビやラジオ、雑誌などのメディアにも進出。サンテレビ「キャッチプラス」月曜レギュラー。番組内に「#てくてくウラリエ 」のコーナーを持つ。2023年4月からラジオ関西「Clip」火曜レギュラー(火曜Clipで #かっくり )。
ウラリエさん「高校生のとき個人のホームページをつくるのが流行ってて、そのときから自分のことを発信するのが好きで、私もホームページを持っていたんですね。その後にはじめたのがブログです。
私、高校生のときはギャルだったんで、メイクとかが好きで、ビューティーアドバイザーになりたいと思って専門学校に通ってたんですけど、2ヶ月くらいでやめてしまって。
『専門学校やめたし、私の日記つけようかな』という感じで、当時10代、20代に支持されている『デコログ』をやり始めたんです。
アパレルショップやラーメン屋、高校のときに通ってた日焼けサロンでバイトをしつつ、ブログも書いていたら、ブロガーの事務所から声をかけていただいて、ブロガーとして活動させていただくことになりました。それが7年前くらいですね。
そのときはもうとにかく「自分!自分!」みたいな感じやったんで、自撮りや毎日のコーディネートや、カフェ巡りが好きやったんで、そのことをアップしたりしてました。」
かれんさん「それって収入あるの?」
ウラリエさん「ブログを書いたから、インスタあげたからといって収入があるってわけではなくて、そこからお仕事をいただいて、はじめてお金をいただける感じですね。
だからブログだけやってた当時は『社会に属してなくて恥ずかしくないんですか?』とかも言われてて、メンタルは鍛えられましたね…。」
ホームページにブログにメイクに専門学校に数々のバイト…。文字にして読んでみるとすごい活動量です。
いろんなものにアンテナを張り、発信をするという現在まで続くウラリエさんの活動の礎が、この時代にすでにできあがっていたようです。
「自分、自分」をやめるきっかけになったある出来事
ブロガー事務所に所属し、ブロガーとして活動していたウラリエさんですが、発信のスタイルを大きく転換する出来事が起こります。
ウラリエさん「突然、顔の右半分が麻痺する病気を発症しちゃったんですよ。そのときはカジュアル雑誌のファッションモデルとかブログのテレビ番組とかにも出てて、結構顔出しもしてたので、『わー、もう出られん…』って思って『自分出すのやめよう』と。
そこからは自分じゃなくて、自分の行ったところとかおいしかったところとか、情報そのものを発信する側になろうと。自分はたまに出てきつつで…」
安藤編集長「え?でも、よう出とんで(笑)」
ウラリエさん「そうなんですよ。出てしまってて…。」
かれんさん「情報発信する側になって、フォロワーは増えた感じ?」
ウラリエさん「増えたのは、メディアさんに顔出しで出させてもらうようになってからですね。
出始めは深夜のバラエティ番組ですけど、顔の病気のこともあって『テレビちょっと怖いな。』って思ってて、それも最初は断ってたんですよ。
でもあるとき、『芸人のサバンナのお二人と共演です』って言われて。
私15年前八木さんのおっかけしてて、本気で『八木さんと付き合いたい』と思っていたので(笑)。『八木さんと共演できるんやったら、顔の位置とか変えたら行けるんちゃうか』と思って(笑)。
それで、気持ちを振り切って一回出てみたら、もう『ま、いっか。誰もそこまで見てないか。』って思うようになって。いまはちょこちょこやれることをやらせてもらってる感じです。」
なんと、メディアに出るいまのウラリエさんを作ったのは八木さん愛だったとは!このことをきっかけにフォロワー数も増え、テレビにラジオにと活躍の場を広げています。
ラジオをとりまく環境の変化に感じた違和感
1992年にラジオDJとしての活動をはじめたかれんさんは、Kiss-FMの看板サウンドクルーとして多くの番組に出演されていました。
筆者もかれんさんの番組にリクエストやメッセージを送り、サイン入りのステッカーをいただきました。阪神淡路大震災の直後、Kiss-FMに福山雅治さんが元気づけに来てくださったときの進行役もかれんさんでした。
リスナーから見れば順風満帆に活躍されていた印象のかれんさんですが、ラジオをとりまく環境の変化が徐々にかれんさんの気持ちに変化をもたらします。
かれんさん「私が一番しんどくなってきたのは、インターネットが広がってきてからですね。いままではFAXや電話、はがきとか、割と手間をかけてリクエストやメッセージをいただいていたのが、インターネットで簡単に送れるようになった。
手軽にコミュニケーションができる一方で、サラッと批判的なことも書けて、それがストレートに目に入ってくる。私はメンタルがそんなに強くないから、その積み重ねもしんどかったですね。
震災のときにもラジオをやっていたので、『ちょっと間違えた情報を流すと人の命に関わる。そういうメディアで仕事をしている』という意識があって。
その『ちょっとの間違え』は、別に命にかかわることではなく、本当に些細なことなんですけど。でも、それを指摘されて、すごい落ち込んでしまって。それで、どんどん、どんどん、しんどくなっていった感じでしたね。
もうひとつはそのインターネットの台頭でラジオ業界自体、経営が大変な時代になってしまって、以前にはなかった業種のCMやラジオショッピングが増えていったことですね。自分が発信したい情報と合わなくなっていってしまって、それもしんどかったです。
ラジオに出続けている方は、どこかで気持ちを割り切ってやってはる。でも、私はそこを割り切れなかったんですよね。」
それまで、スマートでトレンディなコンテンツを得意にしていた番組に、健康食品のラジオショッピングが入ってきたり、過払い金請求のCMが入ってきたり。
ラジオ特有のDJとリスナーの親近感がもたらす居心地の良さが、なにかビジネスの理屈で壊されていく違和感は確かに我々にもありました。
信用を失わないために心がけていること
スポンサーの意向を意識せざるを得なくなるのは、個人で情報発信をしていても同じだとウラリエさんは言います。
ウラリエさん「SNSをはじめたころは、たとえば『これあげるから載せて』とか『無料招待するから載せて』とかが多くて、最初は全部受けてたんですよ。
でも、SNSには自分のプライベートの記事もアップしたいんで、それもごちゃごちゃにしてたら、私、仕事の記事もプライベートの記事もどっちも気合い入れて書いちゃうから、もう見てる人がどっちかわからなくなってしまって。
友達から『どれが案件なん?』とか言われたり『載せてたとこ、あれ、どうかなぁ』とか言われたりするようになって、それは嫌やなぁと。
それだと私自身の信用もなくしてしまうので、選べるような身分ではないんですけど、案件はちゃんと選んでいこうと。
いまは『自分で本当に行きたい!』というお話だけを受けるようにしていて、そうしていった結果、フォロワーさんからの信頼度もちょっとは上がってきているのかなと思ってます。」
かれんさん「個人はその自由度があるからいいですよね。」
ウラリエさん「そうですよね。ラジオでは難しいですもんね。」
仕事として職務を全うすることと、自分の気持ちを大事にすること。どちらも素晴らしいことですが、そのバランスをうまくとって、きちんと伝わる情報発信をしている人たちは本当にすごいなと思います。
一般人と芸能人のはざまにある自然体
ブログ時代に叩かれたおかげでメンタルが鍛えられたと言うウラリエさんですが、もちろん悩みもあるそうです。
ウラリエさん「私自身、病むほどではないんですけど、『自分の立ち位置ってなんなんやろうな』って思うことはありますね。
ブログを書いてるときからそうなんですけど、『ブロガー』や『インスタグラマー』の肩書ってなんか気取ってる感じがしてめっちゃ嫌で…。
テレビに出させていただいているので『芸能人やなぁ』『有名人やなぁ』ってまわりの方に言っていただけるんですけど、私はずっと一般人で、自分では全然そんなこと思ってなくて。」
かれんさん「もうタレント扱いになってきてるんですよ。」
ウラリエさん「そうなってきてるのはうれしいことなんですけど、私の中で『いやいや私そんな人じゃないんですよ〜』って気持ちとプレッシャーがあって。4月からラジオが始まるんですけど、別にそんな面白いことも言えへんし、そんなに話も上手じゃ…」
かれんさん「いや、話は上手よ。いま、一番喋ってるもん」(一同笑)
ウラリエさん「たしかに(笑)。一番喋ってますけど、まとまりないでしょ?あ、ラジオに向けて『わかりやすい話し方』って本も買いました。」
この対談から数日後、ウラリエさんのラジオ番組がスタート。謙遜されてますが、お話は面白いですし、読むところを間違えたり、なにより自然体でいいなと思いました。
ご自分では、見られている自分と、自分の考えている自分とがズレていると思われているみたいですが、案外、その自然体が本当のウラリエさんなのであり、パーソナリティとして選ばれた理由なのではないでしょうか。
メンタルの弱い私を救ってくれたのはヨガだった
実像とのはざまで悩んでいたのは、かれんさんも同じでした。
かれんさん「『大久保かれん』って本名じゃなくて芸名なんですけれど、もう人生の半分以上を『大久保かれん』として生きてきてるんですね。
ラジオやっててすごく忙しかった時期は、大久保かれんと本名の二重人格みたいな感じになってて、結構悩んでいろんなセラピーや療法を受けてたんですよ。
あるカウンセリングで、目の前にクッションを置かれて『これが大久保かれんだと思ってください。●●(かれんさんの本名)さんは、彼女(=クッションのかれんさん)にどんな言葉をかけますか?』みたいな療法も受けて。そんなん、なに言っていいかわからないし、なんだかずっと中途半端な感じで。
それでずっと長いこと悩んで、行き着いたのがヨガって感じですね。
いままでは見えないところから不特定多数の人に向けて一斉にバーンと情報発信していたのが、ヨガでは対面だから自分の声が届く範囲だけ。
不特定多数だといろんなところに気を遣って喋らないといけなかったのが、対面だともっと自分の温度でしゃべれる。私にとってはすごくやりやすくなった感じです。」
ウラリエさん「私の中でかれんさんってもうすごい自立されているかっこいい女性って感じだったんで、メンタルが実は…とか今日のお話で知れてなんかちょっと安心しました。強い女性やと思ってたんで。」
かれんさん「いやいやいや。でもお酒は強いですよ(笑)。たぶんストレスがお酒に行ってたというのもあったと思うんです。抑圧されているのが夜になるとバーンと爆発して。そのお酒の世界があったから救われた部分もいっぱいあるんですけどね。友達もいっぱいできたし。
いま思えばそれがちょっとした反動だったのかなと思えるくらい、公衆の面前に出ることが自分でも気が付かないうちにプレッシャーになってたのかなとは思いますね。」
安藤編集長「いまの話聞いてて思い出したんですけど、イチロー選手もそうやったみたいですね。2006年のWBC日本対韓国戦で負けたときに、いままでずっとクールだったイチロー選手が感情を爆発させて。
そこらへんから『イチロー』と『鈴木一朗』の実体が合わさっていったみたいで、逆に力が抜けたと。いまのお話を聞いてたら、まさにその感じなのかなと思いました。」
かれんさん「それでいうとリエちゃんにとってもいまの状況がいい学びになる。いろいろ経験したからそこにたどり着ける部分もあるのかなって。だから大丈夫よ。やってたらまた出てくるけど(笑)。」
ウラリエさん「え〜、そのときは相談させてください(笑)。」
ラジオを聴いてて全然そんなふうには聞こえませんでしたけど、かれんさん、本当にプレッシャーだったんですね。ラジオから離れられたのはリスナーとして残念でしたが、安心できる場所が見つけられて本当によかったなと思います。
あえて「盛り上げない」ことが「ちょうどいい」神戸を作る
ところで、情報発信のプロで、かつ神戸に軸足を置いている立場として、お二人は神戸のことをどんな風に見ているのでしょう。
ウラリエさん「『ちょうどいい』ってのは本当にありますね。」
かれんさん「ほどよく田舎で、ほどよく都会っていうね。」
ウラリエさん「そうですね。だれかを通したら必ず人と人がつながるみたいな感じがいいですね。」
そんな神戸では、政令指定都市の中で人口流出数が日本一であることを受けて、「神戸を盛り上げよう!」という動きがあったりもします。
かれんさん「『盛り上げたいんです』って話は、私のところにもめっちゃ来ますよ。私は全然『一緒に頑張ろう』って感じなんです。でも、一緒にやりはじめてこっちは100%力尽くしてるのに、『盛り上げたいんです』って言ってた人が『え?もう逃げるの?』みたいなのは結構ありましたね。」
安藤編集長「そうなんですよね。『盛り上げよう』って言ってくる人は、自分でお金出すの渋るんですよ。他人の力とお金だけを借りようとする。だから続けられない。ここが大きいと思うんです。
たとえば僕らは『KOBE豚饅サミット』を2011年からずっとやってるんですけど、これは『自分が豚まん屋やから自分でできることを』と思ってやり始めただけで、『盛り上げよう』とは思ってないんですよね。
これがずっと続けられているのは、豚まんサミットのメンバーがちゃんと身銭を切ってるからです。だから続けてやれてるんだろうなと。」
かれんさん「そこまでの覚悟があるかないかですよね。」
安藤編集長「そうですね。あと僕は、基本的に『神戸が悪い』と思ってないんですよ。
『盛り上げよう』と思っている人とはそこからもう違ってて、彼らはやれ『人口流出が日本一だ』とか、『川崎市に人口抜かれた』とか、『これからどんどん悪くなる』とか言ってるけれど、『悪い数字を並べて問題提起してたら神戸を愛してるということ?それ、違うで?』と思ってて。
だから僕は、かれんさんやウラリエさんみたいに、純粋に神戸を愛してるっていう姿勢だけでええやんって思うんですよね。」
ウラリエさん「確かに私も『盛り上げたい』とは思いますけど『盛り上げよう』って思ってやってないですね。本当に自分が思う神戸のいいところを紹介したいっていうだけですね。」
「盛り上げよう」という掛け声だけではなく行動が伴わなくては、文字通り盛り上がらない、活性化しないのは、神戸に限らずどの地方でもありがちなことですが、むしろ、本当にその町が好きである人たちの日常の自律的な行動こそ大事なのではないでしょうか。
そのためには自分にできることをただ精一杯やるしかない、いや、それだけでいい、つまり、自然体でいいということですね。それが『ちょうどいい町』を作る。
そして、こういう感覚こそが神戸人ならではな気がします。
神戸には他のまちよりも誇れるカルチャーがいっぱいある
もうひとつ、「昔の神戸はよかった」という声をわりとよく聞きます。それはやはり1995年の阪神・淡路大震災で意図せず失われたものが多いことにも起因しているのでしょう。
かれんさんは「タイムトリップ神戸」というプロジェクトをされていて、いままでにクラブでのイベントや三宮センター街でのディスコイベント、ムック本の発刊などにも携わっています。
かれんさん「『タイムトリップ神戸』って、あくまで『70〜80年代のキラキラしたあの頃の感覚をもう一度』というプロジェクトなんですけど、神戸には他の町にはない誇れるカルチャーっていっぱいあると思うんです。
昔、いろんな情報が港を通して海外からいっぱい入ってきて、それを神戸の人はすごく上手に取り入れながら、おしゃれな生活をしていたからこそ、『神戸、おしゃれだよね〜』っていう一大ブームがあったじゃないですか。
そういう力を持ってる町だし、そういう人たちが住んでいる町だから、あのときのみんなの気持ちや想いをもう1回思い出したら、もっともっと魅力的な町にできるんじゃないかと。そういうのを体感してきた40、50代のお尻を叩いてる感じですね。」
ウラリエさん「私も行かせてもらって、私が全然知らないジャンルの音楽がかかってるんですけど、みなさんめっちゃ楽しそうに踊ってて、かれんさんも爆踊りしてて『かれんさん、かっけぇー!』と思いながら見てました。『こういう時代があったんやなぁ』って知って楽しかったです。」
かれんさん「みんな『神戸って元気ないよね』って言うのを、『そうじゃなくて、みんなそういう素質持ってるんだから、それをもう1回花咲かせようよ』そういう想いでやってますね。」
神戸には外国の文化を上手に取り入れ活かしてきた歴史があり、そういう力を受け継いできているはずです。決して懐古趣味に浸るのではなく、いまあるものを大切にしてそれを育てていくためにも、神戸が持つカルチャーを大事にしたいものです。
かれんさん・ウラリエさんのこれから
最後にお二人の今後についてもうかがってみました。
ウラリエさん「私、ブログ時代から『どうなりたい?』『なにしたい?』って質問を受けるんですけど、いまも幸せやし、ずっと幸せやから、ほんと欲がなさすぎて常にないんです。
まぁ地元で細々とやっていきたいなと。ちっさい夢ですみません。」
かれんさん「柔軟性があるし、またやりたいことが出てくるんじゃない?でも『細々』はまわりはそうはさせないと思うよ。」
そう言うかれんさんはどうなんでしょう。
かれんさん「私、旅行が好きで、ホテルに泊まるよりもAirbnbなんかで、ご夫婦で経営している宿に泊まるのが昔から好きなんです。
ハワイとかでも日本人のご夫婦が経営しているそういうところへ行くと、『こんな宿やりたい!』って思うんですよ。
地元の食材を使った朝ごはんとか、こだわりのお茶とかコーヒーとか出していただいて。で、景色が良くて1組、2組ぐらいしか泊まれない。
それを、塩屋でやりたいんです。」
一同「わ〜!それ、いい〜!」
かれんさん「ただ塩屋には物件がなくて、須磨あたりまで範囲を広げると意外と古民家とかの空いてるところも出てきてるみたいで。線路に近いのでそこがちょっと気にはなるんですけども。
イメージとしては外から来た人を迎え入れて、神戸の良さを伝えていきたくて。『今日どこ行くん?』『お肉食べたいです』『ほな、あそこ行っといで』そういう情報発信を、もっと密に、ひとりひとりにできたらいいなと思っています。」
第一線で情報発信している人ってもっとキラキラ…いやギラギラしているイメージだったんですが、かれんさん、ウラリエさんお二人ともごくごく自然体な方でした。
そこに至るまでにはいくつもの紆余曲折があり、いまのところに落ち着いた。だから純粋に神戸を愛せるし、形は変えつつもその魅力を伝えたいという想いは変わらないのでしょう。
ところで、グルメ仲間でもあるこの3人。対談の要所要所で贔屓の飲食店の話になり、たびたび脱線(笑)。共通の友人のお話なども出てきて、それこそ神戸の良さでもある「ちょうどいい」距離感を感じさせました。
神戸で伝えることを自分のスタイルで続けているお二人。これからの活動を、神戸の仲間として楽しみにしています。
三宮一貫樓 安藤からひとこと
今回のKOBEZINEいかがでしたか?
まさに当メディアタイトル(コーべジン)にピッタリのお二方の対談。
鼻息荒く『神戸を盛り上げよう!』と思いを空回りさせるより、自分の❝したいこと❞ ❝できること❞ の積み重ねが良き神戸の明日に繋がると、お二方と話していてそう思った次第です。
私も、もっと肩の力を抜いた神戸ピーポーとして生きていきたいと心から思いました!
楽しい時間をありがとうございました。