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KOBEZINE

INTERVIEW

2020.3.9

神戸に来たのは「謝りたかったから」〜スペイン で“人間”になり神戸で人間らしく暮らす湯川カナさんが革命を起こし続ける理由

Text_ikekayo / Edit_Tomio Ito / Photo_Makoto Aizawa

「神戸が好き」という人の多くが口にするのは「海や山などの自然が近い」ということ。
今回ご紹介する湯川カナさんは、出身は長崎県ですが学生時代に東京へ、その後スペインの マドリードを経て、神戸に移住しました。神戸を選んだ理由はやはり「海と山が近くて最高 の田舎だから」。

しかし、湯川さんを神戸に来たらしめたのは「自分は人非人(にんぴにん)だ」という自責 の念でもあったのです。あの1995年の出来事から14年後のことでした。

その14年間にあったこととは?そして湯川さんがいま神戸で生み出しているものとは? 数々のメディアに取り上げられ、「型破り」と表現することすら月並みに思えてしまうほど ネタまみれの半生を、KOBEZINEでも語ってくれました。

<プロフィール>

湯川 カナ(ゆかわ・かな)

1973年長崎県生まれ。 一般社団法人リベルタ学舎 代表理事。早稲田大在学中に Yahoo! JAPAN の立ち上げに参画し、日本でのヤフー社員第1号となる。サービスローンチから数年 ののち、巨額のストックオプションをなげうって1999年にスペインに移住し、フリーライ ターとして「ほぼ日」などのwebメディアに寄稿しはじめる。2009年に帰国後は神戸を拠点 にリベルタ学舎を立ち上げる。育児と両立する仕事づくりの活動に端を発した学び合いとな りわいづくりのための場所「コミューン99」の運営のほか、兵庫県広報官を務めるなど多 岐にわたる分野で活動している。

遅れてきた全共闘

湯川さんを語るとき、やはり避けて通れない経歴は、まだ学生だったときからYahoo! JAPANに参画し、その立ち上げに参加したということでしょう。これまでもさまざまなメディアで紹介されていますので、ご存知の方も多いかもしれません。

当時から友人だった孫 泰蔵氏からの誘いで、Yahoo! JAPANの社員第1号となった湯川さんは、Yahoo!創業者のジェリー・ヤン氏と直接言葉を交わしたこともあり、彼の「誰にでも平等に情報にアクセスできる図書館のようなものを作りたい」という思いにとても共感したと言います。

湯川さん 「それって『自由と平等じゃん!』と。小学校でも中学校でも学級委員をやって校則を変えてきた私は根っからの革命闘士で、大学時代は友人から『遅れてきた全共闘』と言われたくらい(笑)。

当時ヤフーの社長だった井上雅博さんが『若い君たちがこれからの時代を作っていく、だから君たちが平等で自由でいることがヤフーにとってすごく大事なんだよ』と教えてくれて、これはほんとうに自分にとっては大きなことでした。

そのときまだ学生だった私に、井上さんのような大人たちが頑張る居場所をくれて、そのときのことは今リベルタ学舎をやっていることにもつながっていると思います。」

良き友、良き師に恵まれ、”自由と平等”のポリシーのもと、がむしゃらにYahoo! JAPANで働いた湯川さん。いまはもうなくなってしまった「ディレクトリ」にサイトをひとつひとつ登録していくというお仕事をされていました。

しかし、Yahoo! JAPANが成長し、社員も増えてくると大好きだった”自由と平等”の空気が少しずつ変わってきたそう。そこに違和感と居心地悪さを覚えた湯川さんは、「明日の朝、登録サイトリストの一番上に書いてある言葉の通じない国に行こう」と決め、それがスペインだったというから驚き。「スペインは、そういう経緯で決めました。ルーレットです」と、湯川さんは笑います。

スペインでのくらしで「人間」になった

1999年、スペインのマドリードに移住した湯川さんに、大きな転機となる出来事が起こります。それは2004年3月11日にスペインの首都マドリードで起こった 爆弾テロ 。のちにアルカイダの犯行であると断定された事件です。このときのスペイン人たちの行動と、自分の感覚の乖離に湯川さんは衝撃をうけます。

湯川さん「大変なことが起きたとは思ったけど、自分は無事だし、なにができるわけでもないと思っていたんですが、スペインの人たちはみんな『自分たちになにができるだろう』と言う。えっ?と思いました。

大量に輸血が必要だろうからと献血に列をなす人、救急車が使えないからと現場に向かうタクシー運転手など、だれもどこからもアナウンスなんてないのに、みんながみんな、困った人を助けるために自分から動くんです。

『人ってこんなに自分で考えて動けるのか!』と驚いたと同時に、自分は“また”人非人だ、と思いました。」

湯川さんが自分を「人非人だ」と思った最初のできごとというのが、そう、1995年の阪神淡路大震災です。マドリードの爆弾テロは、そのときのことを湯川さんに思い出させました。

あのときも「大変なことが起きたな。でも自分になにができるわけでもないし、自分は無事 だから普通に暮らすことしかできない」と思ったのです。

湯川さん「だから自分が神戸を”見捨ててきた”という感覚があって、そんな人非人だった自分の原点というのが神戸なんです。」

出産を経験し、そんな人非人だった湯川さんを「人間」に戻したのが、スペインの人、くらし、文化でした。

とはいえ、マドリードでの生活は「移民・アジア系・貧乏・言葉もわからないという、まさに最底辺」だったと湯川さんは言います。

湯川さん「最底辺だったけど、スペインってみんなが貧しいからみんな助け合っていて、すっごく優しいんですよ。
そしてそれは教育の力も大きい。日本では、子供は『早くきちんとちゃんとできた』という”DO”を褒めますよね。でもスペインでは『あなたがいてくれてみんなが幸せ!』ってキスしてハグして終わり。それは”BE”を肯定しているんですよね。その育ち方の違いが、とっさのときに自分で判断して動いて助け合うという行動に出られるかどうかの違いなんじゃないかと思うんです。

つまりみんなで助け合うためには、自分にはその力がある!と自信を持たなければいけないけど、それって日本で生まれ育った私にはできなかったことなんですよね。

でも、スペインで最底辺の生活をしたことでみんなに助けられて、助け合うことを学んで、人非人だった私が人間になったんです。」

その後、スペイン情勢の悪化により帰国を決意。人非人だったときの自分か、今ならなにかできるのではないか。「謝りに行こう」。そうやって、神戸へとやってきたのです。2009年のことでした。

リベルタ学舎のなりたち

湯川さんの運営するリベルタ学舎は、「生き延びる知恵を高める、学びの場。」というタグラインのもと、なりわいづくりから体のケア、SDGsに至るまで、さまざまなテーマで学びの場を提供しています。

そのきっかけは娘さんが小学校に上がるときのこと。教育に関わるなにかをやりたいと思い始めたのは、当時大津市の中学校で起きたとても痛ましいいじめの事件があったときでした。

湯川さん「娘に『小学校に行くといじめがあるの?』と問われ、私はなんて答えたらいいのかわからなかったんです。ないと嘘もつけないし、あるけどお前は強く生きろというのも違う。

そこで考えたのは、娘が、あそこならみんなが助け合ってるもん、と指差して帰って来れる場所を作ろうということ。みんなが助け合っていて安心できる場所。それが、リベルタ学舎のはじまりです。」

そこで一番最初に始めたのが、まわりにいるお母さんたちを巻き込んでやったビジネスづくりでした。

湯川さん「子供がいると働きたくても働けないお母さんが多くて、ハローワークに行っても断られたりして落ち込んでいて。じゃあ自分たちでやろう!ということで、週に1回、2時間ずつ編集と企画の勉強をして企画書を作り、企業に売り込みにいって、仕事にするというプロセスを一緒にやっていったんです。」

当時のリベルタ学舎は住吉にありました。ご縁のあったフランス文学者で武道家の内田樹さんの道場にこどもたちが通えるようにと、近くに間借りしたものでしたが、経営としてはうまくいかず1年で倒産。その時、もったいないとサポートしてくれた参加者たちをはじめ、さまざまな関係者が湯川さんに再起のチャンスを与えてくれます。

住吉の会場で愛用していた畳を作っていた前田畳製作所さんも、湯川さんの再スタートをサポートしたひとり。行き場をなくした湯川さんは、この畳をどう処分すればいいかを相談すると、湯川さんがあまりにも丁寧に畳を愛用していることに感動し、西宮にある前田畳製作所のショールームを3年間も無償で使わせてくれたのです。

また、現在の拠点である高砂ビルにやってきたときも、湯川さんの活動を全部見ていたオーナーはその活動にとても共感し、最上階を貸してくれました。

6F「コミューン99」がリベルタ学舎の場所です。

100番という番地にある高砂ビル。リベルタ学舎は高砂ビルなしには語れません。

湯川さん「このビルの名前は100番ビル。そしてリベルタ学舎の場所の名前は『コミューン99』というんです。それは、あなたが来てくれて100番になる場所、という意味でつけたんです。これは、私としては勝手に高砂ビルさんとのプロジェクトだと思っています。」

兵庫県広報官として

そんな湯川さんは、現在、兵庫県の広報官としても活躍しています。兵庫県に昔からある5つのエリアと、その他の二府四県とで、その地域のあるあるを掲載しているサイト「United5 KOKU of HYOGO」をオープン。みんなのふるさと愛にあふれたウェブメディアです。

U5H.jpより。ふるさとあるあるが漫画で表現されていて、わかる人は思わずニヤニヤ

インタビューコーナー「勝手にエール」の一コマ。
大阪=ヒョウ柄、神戸=タータン、柄繋がりだ!ということで訪れた大阪のヒョウ柄の聖地「なにわ小町」にて)

しかし、長崎県出身の湯川さんになぜ兵庫県広報官の白羽の矢が立ったのでしょう?

湯川さん「兵庫県の新しい広報を考える有識者会議の場に呼ばれたのがきっかけです。こんな付け焼き刃のような年5回の会議ではなく、県庁の内外をつなぐために常設の広報戦略室が必要!と提言したら、じゃあ広報官は誰?となったときに、他にやる人がいなかったから私に(笑)。

広報のプロでもなんでもないし、私は課長と係長のどちらが上の立場なのかもわからないほど組織というものを知らなかった。そんな私が、なんだか偉そうな名前の広報官になって、職員のみなさんには『ごめんね!』という気持ちだったんです。

でも、どこまでいっても私は外部の人間だから、切られる首として存在している。みなさんの首は切られちゃいけないから、変えたいものがあるときには私を使ってほしい、と職員のみなさんには言いました。」

そこから始まった企画のひとつが先出のU5H.jp。兵庫県を知らない湯川さんだからこそ、県民が主役であるために「あなたのふるさとの良さ教えて下さい」から始まったのです。

リベルタ学舎がうまくいっているのは神戸だから

湯川さんが主宰を務めるリベルタ学舎の「リベルタ」とは、古代ギリシャで生まれた「リベラルアーツ」という概念が起源。 人間を従属や束縛から解放するための知識、生きるための力を身につける手法を意味し、 奴隷がそれを知ることで一般市民になるという教養とされていたのです。

湯川さんにしてみれば、組織や家庭、そこに属さないと生きていけない人は時としていわば現代の「奴隷」かもしれない。隷属せず自律した人間として周りと助け合いながら生きていく一般市民=個人になるための学びと実験の場所に、という願いを込めてリベルタ学舎は生まれました。

そんなリベルタ学舎がなんとかうまくいっているのは神戸だからと湯川さんは言います。

湯川さん「神戸って人間らしく幸せに生きやすい街だと思うんです。震災があったから、きれいごとじゃなくみんながお金じゃない、『最後は人だ』っていうことをわかっている。そんな神戸の人のリテラシーに支えられてますね。

生きていくためには自律が必要で、そのためには依存する先がたくさんあったほうがいい。一人で生きていくなんてことはできないから。それはつまり『顔と顔が見える関係』のことで、それができるコンパクトな神戸は最高の田舎だと思っています。

人が少ないからこそ、何かしたいときは誰かにお願いしなきゃいけなくて、それには面倒なこともあるんだけど、それこそが多様性だし、広がりも楽しみも喜びもあるんですよ。」

そんな湯川さんのこれからの展望を聞いてみました。「人はみな幸福を追求する権利がある」という憲法13条が大好き、という前置きのあとに、

湯川さん「いま『全員複業』という団体を運営しているんですが、ここでいう複業には自分の暮らしも含まれるんです。仕事のために暮らしを圧迫するのではなく、子供との時間も仕事の時間もひっくるめて自分の暮らしだから。

もちろん仕事も、やりたいものも、稼ぐためのものも、全部を自分で決定できるよう、みんなが経営者になればいいんじゃないかって思って、それをまず自分自身が実現させたいし、周囲でやってみたいと思う人には一緒に実験する機会を提供したいんです。

経営に必要なヒト・モノ・カネ・情報って、いままでだと組織にいなければ手に入れられなかったものを、いまはインターネットやクラウドファンディングで手に入れられるようになったから、みんな経営者になれるじゃん!って。

私もシングルマザーで、もし自分がいなくなったら娘は孤独になってしまう。もしそうなっても娘が安心してここで生きて子供生んで死にたい、って思ってもらえるような場所にしないとって思っています。じゃないと死んでも死にきれないから。」

自らの手で道を切り開き、自らの意思で選んでここまで来たように見える湯川さんの半生。でも、ご本人は「自分はお金からも会社からもスペインからも逃げてきただけ」と笑います。

しかしその「逃げ先」を間違うことなく見極めたからこそ生まれた数々の奇跡があります。これからはもっと人同士のつながりが重要になる時代。用意された「自由と平等」などなかった時代を生き抜いた湯川さんの生き方は、新しい時代を生きていく者の目を開かせます。

湯川さんの革命は、これからも続きます。

三宮一貫樓 安藤からひとこと

湯川さんと私は同じ昭和48年生まれで、生きてきた時代、見てきた世相など重なることがあり、昨年に出会ったばかりですが意気投合するのに時間はかかりませんでした。

今回の対談で、彼女のバイタリティ溢れる活動、人を巻き込む包容力、自身のしたいことにやるべきことを言語化できる知性が、同級生として誇らしくもあり、羨ましくもあります。彼女の「場」をクリエイトする活動をオマージュし、自分もフード業界に特化した「場」を創造したいと今、心から感じています。

湯川さんは「神戸の人は食に関してもリテラシーは高い」とおっしゃっていました。「パンひとつ買うにしても種類によって店を変えるなんて町、ほかに知りません。神戸の人はそういう編集力があるんですね」と。

その編集力を活かして、他にはない神戸らしい「場」を自分も創造していけたらと思います。

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