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KOBEZINE

INTERVIEW

2023.10.27

「神戸のお客様にうるおいを」大丸神戸店長と神戸阪急店長が目指す神戸の百貨店の新しいカタチ

Text_山﨑 謙 / Edit_伊藤 富雄 / Photo_相澤 誠(ADW Inc.)

神戸を代表する百貨店と言えば、元町の「大丸」と三宮の「そごう」を引き継いだ「阪急」。

「大丸」は1927年、「阪急」の前身「そごう」は1933年に現在の場所で営業をはじめ、戦争や震災、インターネットの台頭による消費行動の変化やコロナなど時代の波に揉まれながらも窮地をくぐり抜け、各地で百貨店の閉店が相次ぐ中、90年経った現在も神戸の地で営業を続けています。

今回のKOBEZINEは、その神戸を代表する2つの百貨店「大丸」と「阪急」それぞれの店長と安藤編集長による対談です。

創業1717年呉服店系の「大丸」と1921年に梅田にターミナルデパートをつくった鉄道系の「阪急」、カルチャーはまったく違いますが、お二人の経歴には共通点も多く、これからの百貨店と神戸のあり方を熱く語り合う対談となりました。

株式会社大丸松坂屋百貨店執行役員大丸神戸店店長
松原亜希子(まつばら・あきこ)

神戸生まれ神戸育ち 甲南大学法学部卒業
1988年株式会社大丸(当時)に入社後、大丸神戸店おもちゃ・文具売り場を担当。2年目からは旧居留地開発と運営にかかわる。
大丸神戸店周辺店舗部マネージャー、大丸神戸店周辺店舗部長、大丸神戸店婦人服飾部長、大丸芦屋店店長、大丸東京店営業部長、松坂屋上野店店長、大丸東京店店長を経て、2023年3月から大丸神戸店店長。

株式会社阪急阪神百貨店執行役員神戸阪急店長
杉崎聡(すぎざき・さとし)

吹田生まれ芦屋育ち 慶應義塾大学経済学部卒業
1993年株式会社阪急百貨店(現エイチ・ツー・オーリテイリング)に入社し婦人服を担当。
セレクトショップのバイヤー、郊外店(西宮・千里・川西・宝塚・堺北花田)商品部婦人服担当を経て、2017年に西宮阪急店長、2020年神戸阪急営業統括ゼネラルマネージャー。2021年4月から神戸阪急店長。

生まれも育ちも就職も神戸

大丸神戸店の店長松原さんは、実は安藤編集長のお姉さんと同じ小学校の同級生。神戸で生まれ、神戸で育ち、大学も甲南大学とずっと神戸で、大学に行くまでは電車通学をしたこともなかったと言います。

大丸・松原さん(以下、松原さん)「中学・高校は女子校で徒歩通学、駅すら使ったことがなかったし、男性とも喋ったことがない。

そんな感じだったのであまり冒険ができず保守的で、入学式で初めてマニキュアをして行ったんですけど、誰かに怒られるかもしれないと思ってずっと手をグーにしていたくらいでした。

バイト先は父親の紹介、門限は6時。そんな私が就職をするとなると神戸を出るわけがないんです(笑)。

私が就職したころはちょうど男女雇用機会均等法がスタートしたときで、私なりにチャレンジをして1社だけ商社も受けたのですが、それ以外は神戸が本社の会社。

実は私の父と母は取引先として神戸大丸で知り合って結婚したので、『やっぱり大丸だよな』ということで入社をしました。」

大丸ブランドの中で一番の売上を誇る神戸店の店長なので、若い頃からご自身でいろいろ切り拓かれていかれる方と筆者は勝手に想像していたのですが、「あまり冒険ができず保守的」とおっしゃっていたのがとても意外でした。

インテリアデザイナーにあこがれていた松原さんは、当時日本一のリビング売場と言われていた神戸店リビング売場内に配属されたもののおもちゃや文具売場の担当となります。

志望動機は「まちを楽しくしたい」

一方、神戸阪急の店長杉崎さんは吹田市の千里ニュータウンで生まれ、その後高校まで芦屋市で育ちます。

杉崎さんが百貨店を志望したのには、幼いころの家族の思い出がありました。

阪急・杉崎さん(以下、杉崎さん)「幼少期、住んでる場所の近くには千里阪急がありましたし、普通のサラリーマン家庭だったんですけど、なにか特別な贅沢があるときには家族で梅田へ出て、三番街で中華料理を食べ、百貨店をウロウロする。物心ついたときからそのことにとてもワクワクしていたんです。

そんな都会の遊園地みたいな存在の百貨店にかかわりたい。もっと言うと『まちを楽しくしたい』が志望動機でした。

私は1993年に入社したんですが、当時百貨店業界の就活マニュアルには『人と接するのが好き』という志望動機が書かれていて、私はまったく違うことを言ったので、採ってもらえたのかもしれません。」

「百貨店は都会の遊園地」というのは、現在40代なかばである筆者もすごく感じていたことで、当時の百貨店には大食堂や屋上遊園地があり、行くだけで本当に楽しい空間でした。杉崎さんの「まちを楽しくしたい」という志望動機は、まさに百貨店の潜在価値を見抜いた発想とも言えそうです。

阪急百貨店に入社した杉崎さんは婦人服の担当を皮切りに、1995年からはバイヤーとなり、毎週のように東京、年に数回はヨーロッパやアメリカに行き、買い付けを担当しました。その後は有名ブランドとの渉外担当として経験を積んでいきます。

元町の再起をかけた旧居留地開発

1970年代から神戸では三宮が街の中心地として勢いを増してきました。特に1981年の「ポートピア’81」の開催に向け玄関口となる三宮の整備が進み、元町は徐々に活気を失っていきます。

元町に店を構える大丸も同様で、1971年から1996年までのあいだはそごうが地域一番店で、三宮駅直結の地の利と全国に系列店を持つそごうの圧倒的な財力に後塵を拝していました。

元町衰退を危惧する地元商店街からの声もあり、その状況を打開するため神戸出身の長澤昭店長が中心となり、大丸が所有する旧居留地の建物を再活用するべく、旧居留地開発がスタート。

1987年に神戸店が大きくリニューアルオープンして、そのときに店舗外の旧居留地38番地に「LIVE LAB WEST(現:旧居留地38番館)」もオープンします。

入社2年目だった松原さんも1989年からその事業に携わります。

松原さん「大丸神戸店でシンボリックな存在になっているのが当時の長澤昭店長で、その長澤店長が当時サザビー(現:サザビーリーグ)の社長だった鈴木陸三さんにお見せしたのが『LIVE LAB WEST』です。

当時レトロブームだったのですが、大丸はそのブームに乗れず、旧居留地の建物を資産として活かせていませんでした。

ご覧になった鈴木さんが『パリの暮らしをこの旧居留地で再現しないか』とおっしゃって、そこから旧居留地の開発が始まりました。

当初は7店舗ほどでしたが、その中には日本で一号店である『プラダ』や『エンポリオ・アルマーニ』などの路面店もありました。

当時は気軽に海外に行ける時代ではなかったので『プラダ』も『アルマーニ』もそうなんですが、『モノを売るだけじゃなくて海外の良きもの良き文化を発信していくというのはこういうことなんだ』というのを初めて実感しました。」

百貨店本館のリニューアルを含めた旧居留地の再開発は、神戸店のブランド価値の向上はもちろんのこと、集客や売上に大きく寄与することになります。

この百貨店本館以外の周辺店舗を活用する手法は、その後心斎橋店や京都店でも取り入れられていきますが、神戸店は本館自体も旧居留地40番地に位置し、旧居留地を意識した店舗展開に特化してきました。

松原さんはこの周辺店舗の担当を19年もの間にわたって担当。

「外で百貨店をやっているようなもので、治外法権みたいなところもあり、好き勝手やらせていただいた」と笑います。

現在では神戸店南側と京町筋までのエリアに、60のブランドショップが展開されています。(※2023年10月時点)

震災で実感「店はまちに生かされている」

神戸の百貨店を語る上で避けて通れないのが、1995年1月17日の阪神・淡路大震災です。三宮のそごうは建物の一部が崩壊、元町の大丸も建て替えを余儀なくされるほどの被害を被りました。

松原さん「震災があった1月17日という日は、ちょうどセールで買っていただいた品物の修理上がりのタイミングでした。震災で家が壊され、みなさん着るものがないということで、連絡をくださるものの、お店の周辺も建物自体も崩れて中に入れない。

それでもお客様の品物をピックアップし、住所を調べ、リュックサックを背負ってお渡しに行くスタッフと、新店舗の計画を立てるスタッフとに分かれて動いていました。

私はお客様の対応をしていたのですが、電話をかけても家自体がなくなっていて電話がつながらず消息をつかめない、電話に出ていただけてもスーツの修理を依頼されていた息子さんが亡くなられていて、親御さんはスーツの修理のことをご存知ないというケースもありました。

そのお話を取引先にしたら『修理上がりですけど、親御さんの役に立つように返金してあげてください』というお話をいただいたりもしました。

新長田店(※2013年1月に閉店)に応援に行ったときには、もう鎮火から2週間経っているのに、地面が熱かったことを覚えています。

これも神戸店のシンボリックな店長のひとり森範二店長が陣頭指揮をとって再興していくんですが、百貨店ってやっぱりまちのランドマークだし、震災後お店が再開されたときに、お客様が『ありがとう』と涙を流して来店された光景を目の当たりにすると、百貨店はまちと共生させていただいているなと感じましたね。」

杉崎さん「私は震災当時、住んでいたのは芦屋だったので、家は大変なことになっていたんですけど、勤め先はうめだ阪急だったので、仕事場で震災を経験していないんです。

西宮から東は普通に日常で別世界でしたからね。西宮北口まで電車が走ってなかったので、リュックを背負って通ってました。

言い方はあまり良くないかもしれないですけど、仕事場で震災を経験していたら、もっと神戸への思い入れも今とは違うものになっていたのかもしれません。」

大丸神戸店は震災から3ヶ月後の1995年4月に本館の3分の1のスペースで仮オープン。さらに2年後の1997年3月2日に”街と共に歩む神戸大丸”としてグランドオープン。1970年以来27年ぶりに地域一番店に返り咲きます。

一方、そごうは2000年に経営破綻。2003年には西武百貨店との経営統合、2006年にはセブン&アイ・ホールディングス傘下となります。

この震災は2つの百貨店の運命を大きく変えましたが、それは三宮一貫楼も同じでした。

安藤編集長「当時我々は一番多店舗展開していた時期で13店舗くらいあったのが、本店は全壊、そのほかのお店も全壊や半壊、流通も寸断されて結局残ったのは7店舗くらいでした。

それで諦めた店舗もあったんですが、息を凌がせていただいたのはうめだ阪急さんだった。

震災の前年1994年の秋に初めて催事に入らせていただいて、その前には心斎橋の大丸さんにも行かせていただいたんですが、心斎橋ではやっぱり551蓬莱さんの力が強くて。

『梅田でやったらどうなるんだろう』とすごく緊張していたんですけど、結果すごい売上を上げられたんです。

その実績があって、翌年うちが震災に遭って大変やというときに、その当時の催事担当の方にお声がけいただいて催事では異例の2ヶ月の通し営業をやらせていただきました。

当時1個130円の豚まんがひと月1,000万円以上売れて、本当にそれで息を吹き返させてもらえました。あらためて百貨店の集客とブランド力を感じましたし、とても感謝しています。」

百貨店に出店することによって新しいモノが認知され、そのブランドの信用性が担保される。その出会いの場のランドマークとして百貨店がある。このことは当時から変わらず、現在まで続く百貨店が担う使命なのかもしれません。

人発想の売場づくりを培った「西宮阪急」での体験

阪急百貨店で圧倒的なのが、うめだ阪急(正式名称は「阪急うめだ本店」)の存在です。そんな圧倒的存在から、特急でたった12分の西宮北口に2006年にできたのが「西宮阪急」です。

並々ならぬ思い入れで地元出身の同僚に競り勝って開設準備室に入ることができた杉崎さんですが、自社最強国内でも2位の売上を誇るうめだ本店との違いをまざまざと見せつけられます。

杉崎さん「昔はどこの百貨店でも出店すれば売れる時代でしたけど、いまやそういうお店はうめだ阪急か新宿の伊勢丹くらいで。

取引先から『うめだ阪急さんならぜひ!』と言っていただけるお店から特急でたった12分、しかも郊外店の西宮阪急にはなかなか入ってもらえない。

なので、『地元のお客様の心に入り込んでいこう』と、モノではなく、とにかく人発想での売場づくり、店づくりをしていきました。

すごく大変でしたけど面白い売場ができて、西宮阪急は百貨店が大変な時代にもかかわらず売上がずっと右肩上がり。しかもリーマン・ショックのときも、うめだ阪急が建て替えリニューアルオープンした2012年も右肩上がりの奇跡のお店なんです。

もともとバイヤーなのでモノ発想の部分は残っているんですけど、その経験から人発想の売場づくりにシフトしていきました。」

その成果が認められ、杉崎さんは2020年に当時の社長から、神戸阪急の改装担当を打診されます。

コロナで「一晩で150坪ほどの売場分の話がなくなった」など大変な時期もあったそうですが、2023年10月11日に全館のリニューアルが一部を除き完了。

新しい神戸阪急の売場には「洗練された華やかな暮らし Time of “Grace”」「優しさあふれるファミリーの暮らし Affection for Life」「海と山を感じる暮らし Feel the Wind」と、おおよそ百貨店のフロアとは思えない名称がついています。

社員1人1人が商品を集め編集した売場は、見るだけでも楽しい、そして小さな幸せをたくさん感じられるスペースになっています。

購買の変化に対する百貨店のあり方

コロナ禍からの回復が見られる2023年ですが、コロナ禍を経て購買活動に変化はあったのでしょうか?

杉崎さん「いよいよ不要なモノが売れなくなってきましたね。クリアランスセールというのは以前の百貨店ではよくやっていたと思うのですが、全然売れなくなりました。

一方で本当にいいものにはお金を出す。ただこれはできる方とできない方がいらっしゃいます。

百貨店業界は富裕層向けのラグジュアリーブランドに力を入れています。それで売上が上がっているのも事実なんですが、それでもラグジュアリーブランドを買うことが本当に豊かなことなのかと。

それよりも日々当たり前のことをちょっと工夫したり、ちょっと手間をかけることがすごく豊かで素敵なことなんだということを、我々は提案していきたいと思っています。」

一方で2015年から東京店の営業部長となり、松坂屋上野店の店長を経て、2019年から東京店の店長となった松原さんはこう言います。

松原さん「富裕消費の話で言うとより堅実になっていて、金や時計など持っていて資産となるものへの購買意欲が大きくなっています。

また、富裕層に限らず、ブランド品やアクセサリーなども、箱やタグをきれいにとっておいて、ていねいに使って、自分に必要がなくなったら売却する、ある意味サスティナブルとも言える二次流通を前提にした購買が珍しくなくなってきています。

ネットショッピングに関してはコロナ禍でリアルの場での買い物ができなかったこともあり、使われる人も増えたと思いますが、膨大な数の中から選んで買ってはみたもののサイズ感が違ったり、素材が粗悪だったり、思っていたのと違うものが届いて、でも返品はめんどくさくてわからないという方が多くいらっしゃると思うんです。

実用性の商品では勝てないからそれはネット購入に任せてもいい。でも、それ以外の本当にうるおいのあるモノだとか、お客様が『そうそう、これこれ気が利いてるよね』というモノは、肌触りや着心地みたいな『五感』で感じられる部分が大きい。

それが満足中枢や幸福中枢につながっていくと思うので、そういうのを大事にしていきたいですね。」

コロナ禍で日常やリアルのありがたみを感じた人も多かったのではないでしょうか。百貨店がリアルに存在するからこその「五感」の強み。ラグジュアリーブランドであろうがなかろうが、よりよいモノを求める我々に百貨店の目利きは必要不可欠なはずです。

「大丸神戸店」と「神戸阪急」のこれから

最後に「大丸神戸店」と「神戸阪急」のこれからについてうかがいました。

松原さん「阪急さんみたいな自主売場を作るか作らないかの違いはあれど、考えていることは同じだと思っています。

私たちはいずれ『ヒューマンメディアストア』をつくりたい。

もちろんお客様に喜んでいただけることが一番なのですけど、一方でお客様だけじゃなく取引先の方にも喜んでいただける『三方良し』の状態じゃないと続かないと思うんです。

いいモノがあるけど、それがなかなか伝わらないという取引先の方がいらっしゃれば、売場に商品が陳列される、あるいは私たちのデジタルで訴求する、あるいは外商係員が訴求する。百貨店というメディアを介することで『あ、こんなものがあったんだ』という普及活動になったり、ファンになっていただけたりする。

そういう意味では百貨店もメディアですが、最終的にそれを伝えるのは人。

さきほど『五感』の話をしましたが、リアルの場で実感できるいいモノをきちんとお客様にお届けすることで、濃度の濃いつながりができたり、いろんな化学変化があって拡散していったりするんじゃないかと思います。

4年前から地元兵庫・神戸の味と雑貨とカルチャーを集めた『神戸市(こうべいち)』というイベントをやっていて、最初はものすごく小さいところからスタートしました。

それがどんどんどんどんローカリティのネットワークが広がって行って、私たちと取引先の方とのつながりも増えるのですが、取引先の方どうしで自発的につながって、『こないだこんなコラボをしたけど、今度はこんなコラボをする』みたいな話になり、それがぐるっと返ってきてお客様が喜んでくださる。

これこそまさに『三方良し』の状態で、こういうことを我々が役目としてやらなきゃいけないと思っています。

東京から神戸に戻って来て思うのは、神戸は横移動・まち歩きが楽しいまち。なのに東京のようなナイトカルチャーがなく、夜は真っ暗になってしまうのがすごくもったいない。一旦家に帰って着飾って夜におでかけできるまちにしたい。

私たちのお店も旧居留地も『文化』や『旬』『季節感』が味わえる場所だったり、家族の場所であったり、思い出がつくれる場所だったりしたので、もう一度そのような場所に置き換えていければと思っています。」

杉崎さん「神戸って150万都市ですけど、すごく人の暮らしとか営みが、まちから近いところに息づいていると思っていて、僕もいまは神戸に住んでいる神戸人として誇りをもって言いますけど『おしゃれな田舎』だと思うんです。

大都市の大阪にも近いんですけど、その神戸が持つ豊かな日常の営みみたいなものを私たちがもうちょっとだけ、後押しできればと。

めちゃくちゃいい場所に店を構えさせていただいているので、我々の百貨店が楽しくなることで、ひとつ神戸のまちの楽しさが増えればということと、なにか行政だったり、地元の人がやりたいことと我々がやりたいことを重ね合わせながら、まち全体を盛り上げていけたらなと思っています。

お客様から見て、大丸と阪急でそれぞれでいいものがあって、それを買い回っていただく、使い分けてもらうっていうのができたらいいですね。

神戸の人って神戸で買い物するのが大好きですよね。『大阪は私のまちじゃないから、大阪に出たくない』という人がすごく多い。

阪神間に住んでいた私もそうで、遊びに行くとしたら神戸へ遊びに行ってましたし。その神戸の人たちの思いに、この2店舗で上手に応えられたらいいなと思います。」

筆者は、神戸のまちに「大丸」と「阪急」があってよかった。そして今、このお二人が神戸に居てくださってよかったと心から思いました。

この2つの百貨店が一緒に神戸のまちを巻き込んで、さらに魅力的なまちにしていく未来を見てみたい。そしてこれからもランドマークとしてあり続けてほしいと思います。

そして、一緒にワクワクするまちを作っていくために、私たちのほうもまた、百貨店とともにあることを忘れずにいたいものです。

三宮一貫樓 安藤からひとこと

今回のKOBEZINEいかがでしたか。
神戸小売り界の二大巨頭、大丸さんと阪急さんのTOP対談。オフィシャルでは初の試みではなかったでしょうか?

当然、競争意識がないと言えば嘘になりますが、その中でも互いへのリスペクトを忘れない両店長のお話しぶりは、さながら上質なプロレスを間近で観たような感動でした。

両者の健全な競争は街を更に魅力的にするエンジンと実感。
あなたは大丸派?阪急派?

さぁ皆さん百貨店で買い物をしましょう!

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